もう20年ほど昔の映画だと思いますが、チェン・カイコー監督の「さらば、わが愛/覇王別姫」が4Kリマスターで劇場公開していたので、ポスターのビジュアルに惹かれて見てきました。
特に前情報無しに見に行ったのですが、3時間近い長尺で怒涛の中国の歴史的変遷とともに京劇を通して男女3人の愛憎が描かれるすごい映画でした。
京劇の俳優養成所で兄弟のように互いを支え合い、厳しい稽古に耐えてきた2人の少年――成長した彼らは、
程蝶衣(チョン・ティエイー)と段小樓(トァン・シャオロウ)として人気の演目「覇王別姫」を演じるスターに。女形の蝶衣は覇王を演じる小樓に秘かに思いを寄せていたが、小樓は娼婦の菊仙(チューシェン)と結婚してしまう。
やがて彼らは激動の時代にのまれ、苛酷な運命に翻弄されていく…。https://cinemakadokawa.jp/hbk4k/
さらば、わが愛 覇王別姫 角川シネマコレクション
最初は京劇役者の小樓と蝶衣という男性二人の報われない愛憎的な話なのかなと思っていたのですが、見てみると全然そんなこともなく、むしろ恋愛というつながりでくくれるものでもなく、小樓と蝶衣、そして小樓の妻になる菊仙という三人の男女の波乱の人生の絡み合いがものすごかったです。
以下、ネタバレがあります。
蝶衣にとっての小樓
映画の最初の方では京劇役者になるためのかなり過酷な世界が描かれます。
蝶衣はこのつらい世界の中で自分を守ってくれる小樓に惚れ込んでいったという話なのかなとか、その小樓を女に取られたからそれが憎くて辛くて…みたいな感じなのかなと思っていたのですが、見ていくうちに、これは単に男性同士の恋愛を描いたものというわけでもなさそうだぞ…?と思い始めました。
蝶衣にとっての小樓は単に恋している相手ということでもなく、家族でもあり、また自分の芝居を構成する大きな要素になっています。
なので、蝶衣が小楼に一番に望んでいたことは、恋人として愛してもらうことではなく、ずっと芝居の世界に一緒に入って、項羽と虞美人という美しく誉れある自分たちでいてくれることだったのかもしれません。
蝶衣は自分の生活と覇王別姫で描かれる項羽と虞美人の世界の区別がわからなくなるほどに京劇にのめり込む役者でした。もちろん小樓に恋愛的な気持ちを望むところもあったでしょうが、それも項羽と虞美人の関係性の一部として欲していたのではないかと感じました。
好き嫌いの分かれる菊仙
菊仙は蝶衣から見れば自分の小樓を奪った憎い相手であり、自分の母親と同じ売春婦であるということで、自分を不幸にする存在そのものです。
しかし菊仙からすれば蝶衣は自分の惚れた男にいつまでもくっついてくる厄介な存在でしょう。
ふたりはお互いに憎み合う間柄なわけですが、、ストーリーが進むにつれ、憎み合いのなかに情が生まれたり、情けをかけられたがゆえにまた憎くなったりと、複雑な感情を抱きあうようになります。
蝶衣にとって人生の邪魔をする女であり、義姉であり、母にもなる菊仙。
個人的には小樓と蝶衣よりもこの蝶衣と菊仙の複雑な関係に強く惹かれました。
菊仙は観客にとっては好き嫌いが分かれる存在だろうと思いますが、自分自身を犠牲にすることなく、自分の幸せを求めながら同時に惚れた男をどこまでも守るという情の強さが私は好きでした。
とくに終盤の文化大革命で、小樓が市中を引き回しにされているところに寄り添って彼を守ろうとするシーンなどは愛する人を命がけで守りたいという菊仙の気持ちが見えてとても印象的でした。
しかし、そんな菊仙も最終的に自死してしまうわけですが…。
シーンとしては、逆恨みした蝶衣に大勢の前で売春婦だった過去を暴露され、そのうえ小樓にも「妻は売春婦で、そんな女は愛していない」と言われた後、首をくくって死んでしまいます。
死ぬ前に自分を売春婦だと言いふらした蝶衣に刀を返してあげるところで、二度振り返る顔がとても好きでした。
一度目はいたわりと諦めがあるように感じ、二度目は厄介なことをしてくれた蝶衣に対するいらだちが見えて。
本来菊仙は売春婦だとかそういうことを言われたくらいで死ぬような女性ではないと思うので、やはり原因は小樓が彼女への愛を否定したことによるものなのでしょう。
最後まで小樓への愛に生きた菊仙がとても切なかったです。
小楼はいい役者・いい男である
私生活を捨てて役にのめり込む蝶衣や、危険を顧みず小樓を愛す菊仙に比べると小樓はその場その場で都合の悪いことをしてしまうダメな男だと思うこともあるのですが、小樓は小樓で本当にいい役者で、いい男であることもまた描かれています。
特に彼が項羽の衣装をまとっているときは、本当の覇王らしく恐れない、本当にいい男っぷりです。
項羽の衣装で舞台に上がって、2度ほどお客さんに詫び入れたり(そのあと乱闘になったり)してましたが、あのときの小楼は堂々としていて、誰に対しても対等で、素晴らしいんですよね。まさに覇王という感じ。
それが市中を引き回された小楼はメイクも取れ、覇王の威厳は崩れ落ち、脅されてあることないこと暴露するただの人間になってしまう。
あの落差が、人間の弱さが、本当に不憫だなと思いました。
本来は小さな頃からリーダー気質で面倒見が良くて、まさに覇王のような男だったのに、京劇のセットもなく、憎悪ばかりのあるところでは、さすがの彼も役のままではいられず、一人の弱い、怯懦な人間になってしまう。
あの場面は小楼の卑怯さと言うよりも、強かった一人の青年をも弱く卑しいものにしてしまうあの時代のディストピア的な恐ろしさを感じたところでした。
一方で、蝶衣の方は大勢から罵倒されても心が折れず(メイクも飾りも崩れず)、虞美人のままでいるところがすごいなと思いました。
虞美人はなぜ自殺するのか
作中でも蝶衣が小樓に訊きますが、虞美人はなぜ自殺するのでしょうか。
それは物語的には、項羽の邪魔にならないようにとか、捉えられて辱めを受けないように、と理由が付けられていますが、もう一つは、負けて醜態をさらす項羽を見たくなかったからと言うのもあるのかなあと思いました。
ひょっとするとあの項羽ですら、小楼のように愛する人を裏切ったり嘘をついたりするような弱さが出るかもしれないわけで、虞美人はそういう項羽を見るよりも、讃えられる誉れのある死を選びたかったのかなと。
文革の前夜に小楼と菊仙がいろんなものを燃やして一緒に酒を飲むシーンがありますが、あれはいわば小楼と菊仙にとっての項羽と虞美人の最後の一夜のようなものだったのでしょう。
ただ、虞美人(蝶衣)と違って、菊仙はそこで死ぬような女性ではないので。
ずっと小楼を守ろうと寄り添って、最後には彼に裏切られる菊仙の最期はあそこで死ななかった虞美人のもう一つのエンド、という感じがしました。
最後の舞台の意味
映画の最初と最後には、蝶衣と小樓が20年以上経ってからまた一緒に覇王別姫を演じるため、虞美人と項羽に扮してお芝居をする二人が描かれます。
あのシーン、あれは、私は蝶衣の見た幻なのかなあと思いました。
実際には蝶衣は死んだり殺されたりしているのかもしれず、彼が今際の際に見た幻想なのかなと。
項羽と虞美人の夫婦のように小楼と夫婦のように寄り添って、すこし弱くなった小楼を支えながらまた望まれて舞台に立ち、最後には虞美人としては美しく誉れ高く死に、小豆子(小さい頃の蝶衣の名)としては兄貴の小石頭(小樓)に優しく笑ってもらって、という。
蝶衣が欲したすべては結局それで、最後にその幻を見ながら死んでいった蝶衣もいたのかもしれません。
蝶衣も小樓も菊仙も、それぞれに素晴らしいところ、どうしようもないところがあり、3人の思いが激動の中国の歴史と絡まりながら展開していくストーリーは本当に圧巻で、また繰り返し演じられる京劇の美しさも素晴らしい映画でした。劇場で鑑賞できてよかったです。

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