
一足先にミッドサマーを見た友人が「ぐんにゃりしよう」と言うので、その友人と一緒に映画「ミッドサマー」を見てきました。

以下ネタバレがあります。
スウェーデンのネガティブキャンペーン映画
一言でいうと「気持ち悪い」という感想になるのですが、悪意のない悪意に事故のように出会ってしまう時、一体どうすればいいのかと考えてしまう映画でした。
ストーリーとしては、アメリカ人の男女がスウェーデンのコミューン出身の友人に連れられてその共同体の夏至のお祭り・儀式に参加するというもの。
スウェーデンはよくこの舞台がスウェーデンであることを許したなと思います。
景色や自然はものすごく綺麗ですが、この映画を見てスウェーデンにいきたいと思う人はいないんじゃないでしょうか。
特に友達に「スウェーデン行こうよ」と言われたりしたら絶対行かないぞと思います。
あと無闇に距離を取られるスウェーデン人とかいそう。
この映画の舞台がスウェーデンであると言うだけでものすごい風評被害を受けそうだなという感じがします。
世界のために生きれば幸せになれる
コミューンの儀式では割と人が死んでいくのですが、コミューンの人はそれを受け入れているので動揺はありません。
彼らにとっては命よりも世界が大事で、この世界を構築するために必要な流れであれば人の生死は重要ではないのです。
淡々と死や殺人を受け入れている人々を見ていると、世界のために生きればこんなに幸福感の中で生きていけるのかとなんだか感心してしまいました。
ちなみにコミューンでは誰かが泣けば自分も泣き、苦しめば苦しみ、快感であれば快感を感じるというように全員が感情を共有しますが、それが世界を共有する重要なファクターになっているのかなと思いました。
ヒロインが恋人の浮気現場を見て泣き出してしまい、合わせて周囲の娘たちも泣き叫び、その声が一つの塊になって自然に溶けてゆくシーンは、人間のコミュニティや世界や共感はこうやってできていくのかと感じさせる一幕でもありました。
また最後に焼け死ぬ人々を見ながら皆が思い思いに苦しむ描写は、ジョージ・オーウェルの1984に出てくる「3分間憎悪」を彷彿とさせました。
あれも国民が結束するための重要な習慣だったので、人間は感情を共有することで一つの世界を作っていくのかもしれませんね。
供物としての恋人の殺害
一方、客として迎えられるイギリス人、アメリカ人は世界の前に一個人がまず尊重される価値観で暮らしているので、コミューンの考えはとても受け入れられるものではなかったでしょう。受け入れるとかの前にとてもひどい殺され方をしますし。
最終的にヒロインは恋人を殺させてコミューンの一員のようになりますが、彼女は元々なにかに依存したい性質で、家族を失うという悲劇にもあい、本当に心の拠り所になってくれるものを求めていました。
そこで優しく受け入れてくれる人々に会います。
最後に自分の恋人を殺させたのは、彼が浮気をした(裏切った)という憎しみもありますが、自分の愛するもの、大事なものを捧げて悲しみを負うことでコミューンの一員になるという供物、通過儀礼の意味もあったのだと思います。
最後にはヒロインの笑顔で終わりますが、あれは浮気者の彼氏を殺して清々したというより、ついに彼女は彼女が安心して幸福に属せる世界を得たという笑顔なのかなと思いました。
求められる外部の血
しかしコミューンという一つの世界で命が回る(誰かが死ぬ・誰かが生きる)ということだけであれば綺麗に完結するのに、人間はどうしても外部の血を入れなければ生き続けることができないのですね。
それは遺伝的な問題(近親相姦を避ける)ということもありますが、何かの異物・刺激がなければ共同体が保たないということでもあると思います。
今回やってきたアメリカ人イギリス人は儀式に拒絶を示しますが、そのことが共同体をより強く結束せさ、意義を再認識させ、自分たちを特別化させますし、その異物が自分たちの中に入り込んだ時、やはり自分たちは正しいのだと感じることができます。
そのために生贄として招かれる客人は非常に不運ですが。。。この映画に教訓があるとすれば「友人の故郷に招かれても不用意に行ってはいけない」ということでしょうか。
気持ち悪さの正体
私がなぜ「気持ち悪い」と感じたかというと、一番には「音」でした。最初から最後まで、不穏な、ゾワゾワする音楽、音、声づくりがなされていて、この「人を不快にさせる音作り」はさすがプロだなと思いました。
人間の泣き声、うめき、たとえそういったものであっても、通常の映画であればそこまで不快ではないのです。それはあくまで演技としての声だからなのでしょう。
しかしこの作品では序盤のヒロインの泣き声がまず醜く、生々しいのに驚きました。全編に渡ってそういった音作りはとても気を配って作られたのだろうと思いますが、生々しい音や声、一方で美しい声など、場面によって非常に象徴的に使われていました。
淡々と暮らす世界と不穏を演出したい制作側のギャップ
音は非常に効果的でしたが、一方で作り手の意図の過剰さも感じてしまい、そのミスマッチも「気持ち悪さ」の一つになっていました。
いくら人が殺されようと、そこの世界ではそれが風習であり、受け入れている日常なのです。
そこに不穏な音楽を入れてしまうと「ほら、どこかおかしいでしょ?なんか不安なシーンでしょ?」という作り手の怖がらせよう、不安にさせようという意図を感じてしまい、一気に世界が薄っぺらくなってしまいます。
そこが制作の意図なのかなとも思いましたが、共同体の正しさの異常さを見せたいのであれば逆に抑えたほうがいいような。
勝手ながら私は作り手の「私達は正常な思考なのでこれが狂っているとか異常だとわかっています。でもこういう世界があると怖いですよね。ほら、怖いシーンですよ。きますよ。」というような意識を感じてしまい、割と興ざめになってしまいました。
益のない死と無駄遣い
あとはこのコミューン自体の気持ち悪さももちろんあります。
何も生きるための必死さを感じない、死ぬための意義も感じないコミューンで、「こいつら絶対90年もここで暮らしてないだろ。謎儀式とかルールも長老ぽいやつが勝手に作っただけだろ」と、見ていてイラッとしてしまいました。
自然の中で暮らしてるのに何も自然の厳しさ辛さを感じない環境ですし。
もちろん北欧の短い夏という一番快適で美しい季節なので全てが美しくて良いと思うのですが、こいつらこんなペラペラの家で冬はどうやって暮らしてるんだよと考えずにはいられませんでした。
北欧神話やその他の民話や宗教は人の暮らしの苦しさ、力強さの中で生まれるものだと思いますし、だからこそ諸々の止む終えない犠牲が重く、有り難く感じるのだと思います。
でもこのコミューンで理解できた死は、最初の「老人が口減らしに自殺します」というくらいのもので、あとの死はなんの意味も活用方法もないので、非常に人体の無駄遣いだなと思いました。
もっと畑の肥料にするとか食べるとか、小さい共同体が暮らしていくための死の意義、活用があるんじゃないかと思わずにはいられません。
なので余計にこんなことのために殺される方がかわいそうで、不運だなと思ってしまいました。
でも本当になんの意味もない死というのは世の中にたくさんあるのでしょうし、通り魔的にそういうものにあたってしまうというのは本当に怖いですね。。
「ぐんにゃりしよう」と誘われて見た映画でしたが、本当に見たあとは「ぐんにゃり」という言葉がピッタリの気持ちになりました。
しかしスウェーデンについて悪いイメージを持ちたくないので、このあとは北欧の楽しい狩りの話でも口直しに読んでおこうと思います。
北欧貴族と猛禽妻の雪国狩り暮らし| 小説を読もう
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