ホアキン・フェニックスが演ると決まった頃からずっと見たいと思っていた映画「JOKER(ジョーカー)」を、やっと見に行ってきました。
※ガンガンネタバレがあるのでご注意ください。

ジョーカーの描く「喜劇」

ジョーカーといえばバットマンの宿敵のようなヴィランですが、特にヒース・レジャーが演じた「ダークナイト」の虚無的な狂気を持つジョーカーは強い印象に残るものでした。

今回のジョーカーはある意味「喜劇」。
コメディアンになりたいけれど全く芽の出ないアーサー・フレックは大道芸のピエロを仕事にして、母と二人でなんとか暮らしている貧困世帯の男ですが、そんな彼が世間や周囲に翻弄され、衝動に任せて人を殺すことで自身を開放し、人々を暴動に駆り立てるヒーローになるという、醜悪な喜劇でした。

ダークナイトのジョーカーを好きな方にはこのジョーカーを受け入れられない方もあるかもしれませんが、異なる世界線のジョーカーと考えると私はどちらも好きでした。

特に今回のジョーカーは子供のようなピュアさがあり、彼が生まれ持った(もしくは幼少期のトラウマとして得た)特性から世間に受け入れられず、抑圧され、怒り、それがふとしたきっかけで開放されていく様子は思わず「良かったね」と微笑みかけたくなるような過程でした。
ただしその「ふとしたきっかけ」というのが殺人なので、倫理的には全くダメなのですが。

今回のジョーカーは哀れな人間が開放される清々しさと、それが酷い殺人・暴力によってなされるという残酷さの2つを両立させている構造が「醜悪」だなと思いましたし、それを構成したトッド・フィリップス監督や、ものすごい演技で成立させているホアキン・フェニックスが素晴らしかったです。

狂気のジョーカーと怒りのジョーカー

ヒース・レジャーが演じたダークナイトのジョーカーは「どうやっておもしろく破滅的な事をするか」ということを楽しんでいましたし、その反面、世間や人間をどうしようもなく嫌悪・憎悪しているようなところもありました。

今回のホアキン・フェニックスが演じたジョーカーは、そのような嫌悪や憎しみを全く感じませんでした。そこがダークナイトと大きく違うなと思ったのですが、彼の動機は憎しみではなく「怒り」であり、それも正当な怒りであるように描かれていました。

例えば自分を愛してくれていると信じていた母親だったのに、実は愛する男をつなぎとめる道具のようにしか見ておらず、彼をネグレクトしていたから。
例えば仲良くしていた仕事仲間だったのに、彼に無理やり銃を渡して、彼が仕事をクビになるきっかけを作ったから。
例えば信頼・尊敬できるコメディアンだと思っていたのに、彼を公共の電波で笑いものにしたから。

今回のジョーカーが殺した人物はすべて彼の信頼を踏みにじったものであり、彼は憎しみや狂気というより怒りを持って彼らを殺しました。
そういう点で、今回のジョーカーは毒や狂気を持った存在としては描かれておらず、観客がジョーカーを正当化しやすい描かれ方だったと思います。

弱者と強者の言い分

でも本当に今回のジョーカーは正しいのかというと、それは全く違っていて、ロバート・デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンが劇中でいうように、「それらは殺人の言い訳にはならない」し、結局自分の弱さを転嫁しているだけではあります。

ただ、弱者からすればそれはあくまでも持っている者(強者)が振りかざす正義にしか過ぎず、「じゃあ虐げられたままおとなしくしておけばいいというのか」という弱者の反論も聞こえてきます。

今作中でははっきりと貧富の差が描かれ、弱者の絶望や閉塞感がリアルに描かれていました。だからこそ、虐げられている身分から強者を脅かす存在になったジョーカーが、暴徒からヒーローのような扱いを受けるのですね。

これは本当にスクリーンのこちら側でもものすごく実感できる対立で、小さい頃に見ていたゴッサムシティは「アメリカのどこかにあるらしいめちゃくちゃ治安が悪い街」という遠い存在だったのに、今や「あー、わかるなー、このやり場のない気持ち」とか「こういうところからどんどん切られるんだよなー」などなど本当にリアルに感じることができるようになってしまいました。。
いや、本当に、世の中ってどんどんゴッサムシティに近づいていってますよね。。
そういった点でもアーサーには非常に共感できてしまいました。

ジョーカーの妄想した喜劇

最後にこの映画は精神病院の中のアーサーが出てきます。
この彼は、ピエロの仕事を得るずっと前に病院に入れられていたアーサーなのでしょうか。それともすべての暴動の後に捕まって収監されたアーサーなのでしょうか。
もしピエロの仕事を得る前のアーサーなのであれば、殺人や暴動は実際には起こっておらず、すべてアーサーの脳内で考えられた「喜劇」の妄想なのだということになります。

そしてこのアーサーは何を「喜劇」として笑ったのでしょうか。
周囲に翻弄されて哀れな様子で右往左往し、犯罪者として自我を開放していく男の妄想が面白かったのでしょうか。
その男に触発されて狂っていく暴徒たちが面白かったのでしょうか。
もしくはその男の過程を見てまんまと同情して、彼の存在を正当化してしまう私のような観客の存在が、ジョーカーにとっては喜劇なのでしょうか。(割と考えすぎかもですが)。

狂っているのは彼なのか世間なのか、そういった問いかけや観客もまた作品の中の一部なのではという感覚は中井英夫の「虚無への供物」とも似た部分があるように感じました。

また、今回の作品はリアルな社会を描き出しながらも「映画らしさ」をきちんと作り込んでいるところがうまいなと思いました。
最初の導入シーンとラストシーンはどちらもチャップリン的なあしらいで、視覚的にも「喜劇」を印象づけてきますが、そういった浮世離れしたあしらいと、劇中のリアルな社会の描き方のギャップがとても良かったですし、社会の方も汚いものは汚く、そして都市は都市らしく、すべてのシーンが美しく切り取られていました。
これももしかしたら、ジョーカーの妄想だからこんなに映画らしい美しいシーンばかりだったのでしょうか。

また、すべてが彼の妄想だとしたら、彼はそもそもジョーカーなのかという問題もありますね。
病院の彼が誰であるかは全く明言されていないので、彼はジョーカー自身なのかもしれないし、またはジョーカーに憧れて自分がジョーカーだったらと妄想しただけの人間かもしれないので。
そのあたりも考えていくと面白そうです。

ジョーカーというキャラクターは有名なだけに難しい役どころであると思いますし、代々の俳優が素晴らしいので好みが分かれるところですが、どのジョーカーが一番良いかと言われればやはり私はダークナイトのジョーカーが一番のジョーカーだと思いますし、続編として創るならあのジョーカーのキャラクターをぜひ守って欲しいと思います。

しかし今回のジョーカーもものすごく魅力的で好きでしたし、「一つの世界線(Alternate-Universe)の話」としては非常にいい作品だと思いました。
特にホアキン・フェニックスの献身的な役作りは「すごい」の一言に尽きましたし、彼の絶望、怒り、清々しさ、といった演技は2時間うっとりするほど素晴らしかったです。

今後ホアキン・フェニックスがまだジョーカーを演るかというと「シナリオ的にはもういいんじゃない」という感じですが、役者としての彼にはぜひこれからも色々な素晴らしい演技を見せてもらいたいです。

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