
ときどき、トム・クルーズって顔と声が邪魔だなと思う。
彼の『トム・クルーズでない』演技や表現の機微が、あの顔と声に持っていかれてしまうので。
というわけで、私は『Digger』を結構楽しみにしていた、のだけど。
見終わってみると、結局そういうことがどうでも良くなるくらいイニャリトゥ監督が好きになってしまう。
『Digger』はそういう映画だった。
どうやったらこういうあらすじが作れるんだろう。
大富豪ディガーの豪奢で傲慢で破滅的な世界と、娘を案じる生真面目で神経質な役者の閉じられた世界が上手に編み込まれていく。
そうして『ああ、こういうこと』『このトピックの風刺ね』とニヤリとしながら見ている客席の私に、「ねえ、これマジだよ」と細い針のような釘をぴしりと刺してみせる。
そういうことも大事にしながら、意図のある画作りや、音や、きちんと映画でしか成立できないこともやり遂げている。
いいなあ。
見終わってすぐにパンフレットを買った。
見た感想は私のものとして大事だけれど、監督の意図をぜひ知りたいと思ったので。
今から読むのが楽しみ。
しかし、ディガーはなんでトム・クルーズだったんだろう。
わざわざトム・クルーズをよぼよぼのおじいちゃんにさせてまで演じさせる必要があったのだろうか。
そりゃ、トムの演技も良かった。
普段動きまくってるくせに、あんなに動けない人の動きもできるんだ、と感心したりして。
ただ、お顔がおじいちゃんになっても、声が若干変わっても、目がずっとトム・クルーズなんだよね。
空港に来なかったというだけで娘の無事を案じるシーンを見ては実の娘とは絶縁状態なんだよなあと思うし、
部下を一方的に怒鳴りつけているシーンを見てはコロナの時も怒ってたなあと思うし、
現実のトム・クルーズが思い出されることも色々あって、なんでわざわざこれをトム・クルーズに?
イニャリトゥ監督の風刺だとしたら結構パンチが効いている。
まあそんなことはないと思うけど。
それに実際ディガーはトム・クルーズくらいのエネルギーがいる、おおげさなほど演劇的で、そして『現実にいる』役でもある。
実際の起用意図もパンフレットに書いてあるといいな。
色んな監督と仕事をして学んでいくトム・クルーズとしては、イニャリトゥ監督との仕事もきっと良い学びになったんじゃないだろうか。
とても静かで賑わしいエンドロールを聴きながら、映画っていいものだなと思った。とても満足だった。












