感想

  • ローカルを味わう、という贅沢

    例えば日本を訪れる外国の方が「日本人のローカルな生活を体験したい」と考えた場合、それは割合達成しやすいことだと思う。

    例えばコンビニのおにぎりを食べるとか、または地元の定食屋や銭湯に行ってみる、とか。

    日本人が欧米に行く場合も同じで、観光客向けでない、地元の人が行くレストランやカフェに行ったりして、地元の感覚を楽しむという体験ができる。
    私自身もそういう旅行をする事で、多少その国を体験できたような、旅慣れた感覚を感じていた。

    でも、今回カンボジアに行って感じたのは、私が今まで考えていた「ローカルを味わう旅」というのは、ある程度現代化された土地だけでできる贅沢なのだということだ。

    旅行者が『ローカルな生活』を楽しめるのは、訪問地の生活レベルが自分の生活と同じか高い場合、もしくはちょっとだけ低い場合だけなのだと思う。

    シェムリアップの「ローカル」

    今回はトゥクトゥクの運転手さんが、シェムリアップの郊外にある地元の市場にも案内してくれた。
    市場では近くの川で取れた魚やナマズ、カエルなどが売られていた。

    冷蔵設備はないので、常温で、土の上にシートを広げた状態で並べて置いてある。
    生臭い匂いとハエの数もものすごく、地元の方は慣れているのか、ハエを払うこともしない。
    私がここの魚を買って調理できるかと考えると、ちょっと無理だなと思った。

    でも地元の方にとってはそれが普通の生活だ。

    もしカンボジアでローカルな体験をしたいと思えば、こう言ったところで食事をとり、バイクの後ろに3〜4人でまたがって移動し、時には濁った川で泳いだり魚を釣るということになる。

    どれも私にはできない。

    運転手さんもその辺りは分かっていたのか、市場では手を出しやすそうな米とバナナを蒸したおやつや、サトウキビのジュースなどを勧めてくれ、それを食べる事でちょっとだけローカルの気分を味合わせてもらえた。

    ちなみにこの市場では、サトウキビのジュースが一杯500リエルだった。米とバナナを蒸したおやつも同額。
    これをアンコールワットなどの観光地で買うと、それぞれ1ドル(8000リエル)ほどになる。

    日本人の感覚では一杯120円程度というのは普通の感覚だけれど、シェムリアップの地元の市場では、1ドルあれば16杯のジュースが飲める。

    それほどに地元の物価と観光の物価には開きがあることに驚いたし、同時に清潔さと、安全性、またそれに対する私たちの耐性や感覚にも大きな開きがあるのだと納得した体験だった。

    ローカルと観光が交わらない環境

    旅行先ではつい価格だけを見て、それが地元の物価よりも高ければ、ぼったくりだと思ってしまいそうだけど、一概にそう決めつける事はできない。
    (もちろんぼったくりもあるにはあるのだと思う)

    例えば「地元の食事がしたい」と言っても、こてこての観光客向けレストランに連れて行かれてがっかりしたという話も聞いたりするけれど、それだって連れて行く方からすれば当然のおもてなしだったのかもしれないわけだ。

    シェムリアップでは生活者と観光客の間には生活感覚に大きな隔たりがあって、1つの街にいるのに、ローカルな生活と観光が決して交わらず、並行して存在する、パラレルワールドのようだなと思った。

    ローカルな生活と旅行者との生活レベルが等しくなることが決して良いことばかりではないと思うので、今のシェムリアップの状態が良いか悪いか一概には言えないし、ローカルの方の今の生活を見下したり憐れんだりするつもりもない。

    ただ、世界を見ると地元の方と旅行者が同じように過ごせる街の方が実は少ないのかもしれないなと感じたし、それはけっこう贅沢な旅なのだなと思ったりした。

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  • バーフバリ 伝説誕生&王の凱旋 マサラ上映

    かなり流行っているらしいインド映画「バーフバリ」の1:伝説誕生と2:王の凱旋(完全版)が地元の映画館で連続上映される、しかもマサラ上映で!というイベントがあったので行ってきた。

    インド映画もマサラ上映もほぼ初めてだったけど、かなり楽しい半日間だった。

    2部作のインド巨編・バーフバリ

    バーフバリはインドの架空の国「マヒシュマティ王国」の親子三代に渡る王位を巡る争いの物語。

    王になるはずだったアマレンドラ・バーフバリ(父)は卑劣な罠で命を奪われ、生まれたばかりのマヘンドラ・バーフバリ(子)は遠く離れた川で何も知らない村人に育てられるも、偶然からマヒシュマティ王国に関わることになり、民を率いて悪の王を倒す。
    これは典型的な「貴種流離譚」でもある。

    伝説誕生では、川で見つかった子バーフバリが運命の女性アヴァンティカに導かれるようにしてマヒシュマティ王国に戻るまでと、父バーフバリがどんな生い立ちでどのように王位争いをしていたかが語られる。

    続く王の凱旋では、父バーフバリと母デーヴァセーナの恋と父バーフバリの最期が語られ、子バーフバリが父の仇である王バラーラデーヴァを討ち取るまでが描かれる。

    バーフバリって一人の名前だと思ってたんだけど、父も子もバーフバリという名前で、しかも同じ俳優さんが一人二役やっているので、時々どっちだっけ?とわからなくなる。
    でもまあそんなことはどうでもいいくらいに楽しめる映画だった。

    ぶっ飛んでるご都合主義

    楽しめるポイントは、とにかく「いや無理でしょ」と言いたくなるほどの超人パワーですべてを解決していくバーフバリ的ご都合主義。

    まずめちゃくちゃ高い滝を自力で登るわ(滑っても絶対骨とか折らない)、狙った弓は絶対外さないわ(滝からジャンプしつつ撃っても当たる!)、そこらへんの木を引っこ抜けるわ(そんで投げて敵をやっつける)、荒ぶる象をなだめるわ(象が優しく微笑みさえする)と、ものすごい活躍ぶり。

    普通これだけやると絵空事すぎてうんざりしてしまいそうだけど、バーフバリだと「バーフバリかっこいいーー!!」となるので不思議。

    ひたすら女性が強い

    あとすばらしいのは、女性がみんな美しくて強い(物理)ということ。
    国母(父バーフバリの母親代わり)と王妃(父バーフバリの嫁・子バーフバリの母)そしてアヴァンティカ(子バーフバリの好きな人)と3名が代表的な女性だけど、皆さん大体2,3人くらい簡単に殺せるし、それぞれ自分の信念のために動くとても芯の強い女性ばかり。

    特に国母は国を動かしながら二人の子を育てるというかなり肝っ玉の強い女性で、私は好きだった。

    繰り返されるモチーフと対比

    もう一つ見ていて楽しい点は、特定のモチーフが繰り返されたり、対比されたりしていて、それを考えながら見られる点。

    例えば王族の女性が行う火を使った願掛けの儀式や、女性が橋のない川を渡るシーンなど「あ、これはあの時と同じモチーフだ」と気付くシーンがいくつかある。
    もちろん全く同じシチュエーションではないながらも、少し関連付けられたりしているので、そういったものを考えながら見るのも楽しい。

    特に1と2でも関連があったりするので、やはり連続で見られてよかったなと思った。

    ストーリーとしては単純だけど、細かく見ていくとインドの神話との関連や、古典作品のモチーフの継承などもあり、そういったところを追っていくのも楽しそうだ。

    マサラ上映で紙吹雪を飛ばしまくる楽しさ

    ちなみに今回はマサラ上映という、ダンス、鳴り物、光り物、掛け声、紙吹雪オッケーの上映会だった。

    最近は映画館に行っても席が埋まるということはほとんどないけれど、今回は流石に満席で、インド風の服装をしている方も多く、始まる前から楽しめた。

    上映中は、本格的に踊る人は少なかったものの、劇中で花びらなどが舞うシーンにあわせて紙吹雪をふらせたり、バーフバリー!!かっこいいーー!!と叫びまくるのはかなり楽しかった。

    作品のおもしろさも、劇場の雰囲気も全部楽しめて、とても満足な上映会だった。

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  • 鹿児島のお座敷遊び @ こよい、こいとと

    お世話になっているカフェの一周年で、鹿児島芸者さんをお招きしてのお遊びがあったので参加させていただいた。

    鹿児島の町芸者として今も活動をされている住吉社中の皆さんの踊りと唄を拝見するという珍しい機会。

    最初に住吉社中を知ったのは地元のフリーペーパー「Region」の特集記事でのことで、鹿児島にも芸者さんという存在がいたのねと驚いた。
    なかでも社中を率いる住吉小糸さんは男性の芸者さんという珍しい方。

    小糸さんの踊りも素敵で喉も良く、昔から伝わる歌を沢山唄っていただいた。
    まだ小学生というお嬢さん方もしなやかな手さばきでお上手だった。

    普段は宴会の席で囃されながら披露されるのだろうけれど、今回はコンサートのような形式で、いつもとは異なる席。
    それでも最後には色んな方を巻き込みながら宴席を盛り上げていかれるのは流石。とっても楽しませていただいた。

    席自体も楽しかったのだけど、唄と踊りを見ていて祖父の時代の飲み会の席を思い出した。
    大体お酒が入ると最後には唄が始まり踊りが始まり、あ、こんな感じだったなと。

    思い出してみると、我が家の、私達が幼稚園や小学校低学年のときのお誕生日会というのは、子どものためのパーティーではなくて誕生日という口実の元の飲み会だった。
    あれはあの時代の田舎はそうだったのか、もしくは我が家だけが特殊だったのかわからないけれど…ケーキの代わりにお寿司をとって、叔父や叔母が来て普通に宴会をしていた。
    そんな席でこんな唄と踊りがあったなと、懐かしく思い出した。

    今はもう親戚が集まっても唄も踊りもしないし、やれと言われてもできない。
    子供の頃は迷惑な酔っぱらいがと忌々しく思っていたけれど、今振り返ると、あれはあれでいい時代であり、文化というのは結構脆くてすぐに廃れてしまうものだなと感じる。

    町芸者もいずれいなくなるのかもしれないけれど、今しばらくはこうして拝見できる機会があってとても嬉しい。

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  • 月曜日のユカ


    たまには古い映画の気分で見てみたのが、加賀まりこ主演の「月曜日のユカ」。

    加賀まりこの伝説の美少女時代、そしてめちゃくちゃ好青年な中尾彬が見られる貴重な映画。

    容貌の可愛らしさもさることながら、DVDのパッケージにもなっている加賀まりこの背中、ヒップ、とにかくプロポーションが素晴らしい。
    生身の女性というよりは人形のようで、男性だけでなく女性も見惚れてしまうような美しさがある。

    中尾彬のちゃきちゃきした好青年ぶりも素晴らしい。
    「よぉ!」というのが口癖の、いかにもこの時代のハマっ子という感じ。
    映画自体も面白い手法がいくつも取り入れられていて、この時代の実験的な映画だったのだろうと感じた。

    あらすじ

    様々な国の人々が行き交う横浜のあるナイトクラブで働く女ユカは、男を喜ばせることが自分の喜びといい、様々な男と寝るが、けしてキスはさせないことで有名。
    一人のパトロンのパパがおり、初老の彼を喜ばせようと一生懸命に尽くしている。
    同時に恋人の修もおり、ある日曜日、ユカは恋人とデートをしているときにパパを見かける。彼は家族と街を歩き、娘に人形を買ってやって幸せそうに笑う。
    「私が一生懸命頑張ってもあれほど喜んでくれない」とショックを受けたユカは、自分も人形を買ってもらうことでパパを喜ばせようと計画する。
    恋人の修に「日曜日に人形を買ってもらってパパを喜ばせる」と話すと「それは違う」と諭されるユカ。ユカはなぜ違うのか理解できず、「日曜は家族の時間だ」と言われると、「じゃあ月曜日でいいわ」と返す。
    月曜日、ユカは自分の母を連れ、娘になるつもりでパパを訪ねると、困ったパパに追い返される。夜に部屋に訪ねてきたパパは、買ってきた人形を渡し、自分の仕事のため取引先の船長と寝て欲しいと頼む。
    修はこれを聞いて怒り、船に向かおうとするが、事故で死んでしまう。ユカは船に案内され船長と寝るが、拒否していたキスを強引にされ、そのことにショックを受ける。
    パパは彼女を労りながら連れ出すが、港で聞こえてくる音楽を耳にし、パパに踊りましょうと提案する。
    波止場でくるくると踊るユカとパパ。そのうちパパは足を踏み外し、海に転落してしまう。
    しゃがみこんだユカは溺れるパパをじっと見つめ、彼が沈んだあと、颯爽と歩いて行く。

    キスをしないユカ

    ユカは様々な男と寝て、彼らを喜ばすことが喜びだと感じている珍しい女だけど、これは彼女の母親と信仰するキリスト教に関係があるよう。
    ユカの価値観は母から大いに影響を受けている。

    彼女の母は身体を売っており、ユカが小さい頃はそれを目撃してしまうこともあった。
    事あるごとに、男を喜ばせ、愛することが女の存在意義であるとユカに語る母。
    おそらくユカは人並みの家庭の幸せを知らずに育ったのだろう。

    男が喜び、金や愛情を貰うことで母が喜ぶ、それがユカの幸せにもつながる。

    そんな子供時代だったと考えると、パパの親としての喜びを理解できないのも仕方がないのかもしれない。
    そしてユカは教会にも熱心に通うキリスト教徒だ。幸せの喜びと快楽の悦びの区別がつかないユカは、男と寝る、喜ばせるということが信仰にもつながると思っている。

    一方でユカはけしてキスを許さない。
    これはキスは愛する人と…と考えているのではなく、キスを悪いものと思っているから。
    映画の後編、短いカットでこれが明かされる。

    小さい頃に母が男性とキスをし、抱き合っている所を見たユカは、同じくそれを見た教会の神父様から「あれは悪いものです!」と教えられる。
    神父は売春を悪いものと教えたのだけど、母から男を喜ばすことが喜びと教えられているユカは売春や情事自体を悪とは考えられなかった。
    しかし神父様の言うことは必ず正しい。

    この矛盾を解消する答えとして、そのとき母と男がしていた「キス」が悪いものなのだろうと解釈する。
    キスを避けることによって、母の行為や自分の幸せを疑うことを避けているのだ。

    ユカはピュアで疑うことを知らない娘だけど、小さい頃に人間的な幸せを得られなかったユカにとって、愛する母と信仰を盲目的に信じることが自分を守るすべだったようにも思う。

    ユカはパパから取引先と寝るように頼まれたことを恋人に伝えてしまい、恋人の修は激怒する。
    そのときにユカは「修にはキスしてもいい」と言うのだけど、修には、単にご機嫌取りとしてめったにしないキスをしてあげる、という意味に捉えられてしまった。
    でもきっとあの言葉は、どんな悪でも修のためにならやってあげる、というユカの強い愛情を示した言葉だったのだと思う。

    人形が人間になる時

    ユカはあんなにも避けていたキスを強引に、しかも自分の望まない相手にされてしまう。
    ショックを受けて唇を擦りながら出て来るユカを労るパパ。
    そのあと二人は踊り、海へ沈むパパを見捨ててユカは歩き出す。

    ユカは多分、心のどこかでは、本当に悪いのはキスではないと知っていたのだろう。
    ただそれを信じなければ母の教えや今までの自分を疑うことになってしまうので、信じることで自分の心を頑なに守っていたのだと思う。

    劇中で人形が度々でてくるが、加賀まりこの人形的な美貌とも相まって、ユカは時折人形のように見える。
    ユカは母と信仰と男たちの間で、美しく汚れのないピュアな人形として生きていたのかもしれない。

    恋人の修に対しては、今までの自分の心が崩れてもいい、人形でなくなってもいいと思いキスを許したのに、実際には望まない相手に無理強いされ、激しいショックを受ける。

    ユカにとってキス=悪いことは現実のものとなってしまった。
    同時に、男を喜ばせることが喜びと思えない経験になってしまい、今までの価値観も壊されてしまう。
    ユカにとって、海に沈んでいくパパを見捨てるのは、きっと無理やりされたキスよりは悪ではなかったのだろう。

    全く明るい話ではないのだけど、人形のようだったユカが「あー、ったく、なんだかな〜」と、人間くさい顔でスタスタと歩いて行く、その後ろ姿が妙に微笑ましい最後だった。

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